読者様はフランツ・リストというピアニストをご存じですか?
超難曲を作ったとか天才というイメージを持たれている方が多いのではないかと思います。
そのイメージ通り、リストは「ピアノの魔術師」と呼ばれるほど常人ばなれした、演奏技術の高いピアニストでした。
神の手を持つとも言われる彼は、その大きな手で初めて見た楽譜をもその場で簡単にひきこなし、誰にも真似できない難しい曲を多数世に残しました。
リストの代表曲といえば、ラ・カンパネラや超絶技巧練習曲シリーズ、愛の夢(第3番)などが挙げられます。
どれも超絶技巧のオンパレードですが、今回はそのうち「ラ・カンパネラ」についてご紹介したいと思います。
この曲も非常に難しい曲で、プロのピアニストでも避けて通る人が多いと言われるほどです。
でも旋律がとても美しく、リストの曲の中では人気の高さがうかがえます。
そしてピアノ曲の中で、私が大好きな曲の一つでもあります♪
カンパネラはイタリア語で「鐘」を意味しますが、メロディーからも鐘をイメージさせる素敵な曲だからです。
「難曲だったら私には弾けないわよね」とがっかりされている方も、初級用にアレンジされている楽譜があるので安心してくださいね。
今回は、「ラ・カンパネラ」と作曲者のフランツ・リストについて深く解説します。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
ピアノ曲 リストの「ラ・カンパネラ」を詳しくご紹介!
「ラ・カンパネラ」。
曲名からして響きが美しいですよね。
ピアノを学んでいる人なら、できるならば自分も弾いてみたいと思う曲の一つだと思います。
私もそう思いました。
でもここだけの話、ラ・カンパネラを上手く弾けません。
私の手は決して大きいとは言えないので、演奏するにはかなり体に負担がかかります。
リストの曲は難しく激しいので音楽家であっても、練習によって肩こりや腰痛、顎が痛くなることもしばしばある話なんです。
弾けなくても、いや弾けない私だからこそ、この曲の魅力を読者様にお伝えすることができるし、ピアノを始めたばかりの方にもおすすめできる方法はあると思っています♪
ラ・カンパネラはどんな曲?
いかがでしたか?
この投稿者もたいへんな技術の持ち主ですよね。
思わず見惚れてしまいます。
手を大きく広げた和音だけでなく、ポジションを素早く移動させる場面もたくさんあります。
神の手をもつリストが作曲していますから、演奏者にも高い技術と生まれ持った手の大きさが必要なんです。
ラ・カンパネラの誕生の裏話
当時イタリアに、ニコロ・パガニーニという作曲家兼バイオリニストがいました。
1832年、21歳の頃、リストはパガニーニの演奏を生で聴いて、非常に大きな衝撃を受けたそうです。
パガニーニはリストより30歳ほど年上、自分のお父さんくらいの年代でヴィルトゥオーゾの先駆者とも言われていました。
ヴィルチュオーゾは超絶技巧をもつ音楽家に与えられる称号のこと。
パガニーニは名高いヴィルトゥオーゾ・バイオリニストだったのです。
1834年、リストは『パガニーニのラ・カンパネラの主題による華麗なる大幻想曲』を出版しています。
リストのラ・カンパネラは、パガニーニのバイオリン協奏曲をピアノ曲に編集したものなんです。
元となったパガニーニの曲の名は、バイオリン協奏曲 第2番・第3楽章「小さな鐘のロンド」といいます。
なるほど、だからラ・カンパネラなんですね。
パガニーニの演奏に感銘を受けたリストは、「自分はピアノのパガニーニになる」と決意したとも言われています。
これが超絶技巧にこだわるようになったきっかけなのです。
ラ・カンパネラが美しい理由は鐘マジック
超難曲のラ・カンパネラを聴いていると、次々にたくさんの音が聞こえてきます。
ピアノの音色が美しいから美しく響くのは言うまでもありませんが、ラ・カンパネラが美しく聞こえる鐘マジックが存在します。
それは繰り返し登場する「レ#」です。
ラ・カンパネラではこの「レ#」を鐘の音として表しています。
その音が響き渡る構成になっているのです。
「レ#」といっても、鐘の音は一つではありません。
5オクターブの音域で「レ#」は使われています。
それが楽譜のあちこちに散りばめられ、きらびやかな鐘の音となって聴いている人を魅了するのです。
広瀬すずさんも涙した!独学でピアノを始めカンパネラを弾く59歳の話
リストのラ・カンパネラはプロのピアニストが嫌厭するほどの超難曲。
それを全くの初心者が独学で弾けるようになった、という有り得ないようなお話です。
なのでこのエピソードは、ピアノを始めたという方もピアノをまだされてない方も、きっと人生のプラスにしてもらえると思います。
52歳の海苔漁師の徳永さんは、フジコ・ヘミングさんの「ラ・カンパネラ」をテレビでみたことがきっかけとなり、独学で一からピアノを始めました。
人生を物語っているような魂のこもったフジコ・へミングさんのラ・カンパネラに大きな衝撃を受けたそうです。(まるでパガニーニがフジコさん、リストが徳永さんですよね!)
徳永さんはこれまで、漁以外はパチンコ三昧という生活を送っていました。とうとうお金が底をつき、家族の上手い計らいのおかげでパチンコの趣味をやめることができます。
暇をもて余していたところ、ラ・カンパネラを弾くフジコさんの映像が目に飛び込んできたのです。
「カンパネラを弾きたい!」「弾けるようになって、フジコ・ヘミングさんに聴いてもらいたい!」
その強い思いを家族に打ち明けますが、カンパネラを弾くなんて絶対無理だと言われます。
「なに~!?絶対に弾いてみせる!」
しかし楽譜を開いてみると、何が何だかさっぱりわからない状態。
それでも徳永さんはその夢を実現させるために、漁以外の時間全てをピアノに注ぎ、1日8時間の猛練習を始めます。
楽譜が全く読めないため、鍵盤が光る動画で一音一音鍵盤の場所を覚え、指に記憶させていく方法をとります。(気が遠くなる作業ですね(笑))
徳永さんは7年間、この練習を毎日続けました。
そして59歳となった今、その夢がかなうことになります。
メディアの力を借り、フジコ・ヘミングさんと対面する場が設けられます。
徳永さんのラ・カンパネラを、フジコさんは是非聴いてみたいと快く歓迎されます。
奇跡の漁師ピアニスト。
会えるとも思っていなかったフジコさんにカンパネラを聴いてほしいという夢を叶えました。
フジコさんは「あなたがカンパネラが弾けるのが不思議だ。考えられない、ここまで演奏できるのが。あなたの人間性が音に伝わっていて、すごく良いですよ。いい音が自然に出ている。海苔なんてつくっていなかったらよかったのに。」とジョークを交えながらお話されていました。
さいごに、漁師の徳永さんは「年をとっても夢は追いかければつかまる」と話しています。
これは、2020年1月13日に放送されたTBSのテレビ番組から抜粋したものです。
番組ゲストの広瀬すずさんは、このエピソードに感動し涙していました。
この番組では、徳永さんのことをある種の天才だと紹介しています。
私は、ここまで人は努力できるものなんだと知ると同時に、努力が実を結ぶ瞬間を目の当たりにして、とってもウルウルしてしまいました。
人の心を動かす存在ってかけがえのないものですよね。
彼の実行力は簡単に真似できるものではありませんが、ぜひ見習って、私もピアノ上達のためにもっと努力しようと思いました。
▼ 徳永さんのラ・カンパネラ演奏はこちら ▼
ピアノに興味がある読者様、さっそく始めてみませんか?
楽譜は読めなくても、想いがあればピアノは弾けます♪
(良かったらこちらの記事も参考にしてみてください→ピアノは何歳からでも始められる!メリットや効果をご紹介!)
ラ・カンパネラのピアノ譜について(初心者向けも)
ラ・カンパネラの楽譜(原曲)は、上級者向けというのはお分かりになるかと思います。
そして技術だけではなく、手の大きさも必要なんですよね。
素晴らしい曲は多くの方に親しんでもらいたい!
そんな思いから音楽業界の編曲者たちは、さまざまなアレンジを行います。
ラ・カンパネラにも初心者におすすめのピアノ・ソロ譜があるんです。
和音は最小限に、原曲のイメージのまま弾きやすくアレンジしてあります。
美しく切ないカンパネラの響きを残しつつ、手の大きくない人にも弾けるようになっているんです。
ちなみに初級の楽譜は、譜読みをしやすくするためハ長調へ移調され、鐘の音を表わす音は「ミ」になっていますよ♪
そして、アレンジ前(原曲)は一曲で4073箇所の鍵盤を押さえる必要がありましたが、初級の楽譜では200~300箇所で済むようになっています。
およそ20分の1の音符量とは有り難いですよね。
楽しんで弾ける内容になっていますので、ぜひ易しい楽譜から手に取ってみてくださいね♪
ピアノの魔術師フランツ・リスト
リストは、19世紀最高のヴィルチュオーゾ・ピアニストといわれ、彼の死後、彼を超えるピアニストは現れないだろうとまで言われたほどです。
その一方で、ハンガリーの音楽家と記述されることが多い彼ですが、実は生涯ハンガリー語を習得することはなかったそうです。
まぁそれには理由があるのですが、彼についてお話していきたいと思います。
リストはどういう人物だった?
リスト(Franz Liszt 1811~1886)です。
ほんっと男前ですよね。(今回も走り描きですみません(笑))
描きながらうっとりしてしまいました。
現在残っているリストの写真や肖像画には、演奏中のものであっても鍵盤を見てピアノを弾いているものは一枚もないそうです。
ピアノを見ずにあれほどの超絶技巧を披露できるなんて、リストの凄さは想像を超えますね。
整った顔立ちとツヤツヤの髪の毛に、神の手を持ち合わせたリストはその技術の高さと美貌から、当時ヨーロッパの貴婦人たちをとりこにしていました。
リストの人気は非常に高く(特に女性ファン=リストマニアと呼ばれた)、リストの演奏を聴いて気絶する観客もいたんだとか。
一般女性だけでなく、当時天才少女ピアニストとして名を馳せていたクララ・ヴィーク(のちにクララ・シューマン)はリストの演奏を聴いて衝撃のあまりに号泣したそうです。
(クララについてはこちらの記事をご覧ください→クララ・シューマンと愛の協奏曲)
リストの曲には、両手を広げて4オクターブの音を弾いたり、音数の多い和音も多用されています。
すさまじく早いポジション移動にオクターブ跳躍が両手で必要となる曲も多いです。
そんな技巧からリストには6本の指があるという噂が出まわり、本当に信じられていました。
リストはもともと手が大きく、指が長かったんです。
幼少期から指を伸ばす練習を重ね、片手で12度の音程も軽々とおさえることができたんだそうです。
これが神の手といわれる理由ですね。
そういったことから彼は、10度を超える和音が連続する曲を数多く作っているんです。
ちなみに10度は1オクターブ+鍵盤2つ分(鍵盤10個分)をさします。
いや~すごいです!
才能というか、天性の優れた体つき、神に選ばれた者としか言いようがないですね。
また、リストは数多くの弟子からも尊敬されていました。
その弟子たちもまた、演奏技術が高いと評されるピアニストが多かったと言われています。
リストは才能を感じる者だけを弟子としてとっていたんです。
そして、リストについて書かれた文献によると、リストの演奏を聴いた人々は「繊細ながら非常に情熱的で力強い演奏だった」と言っていたことが残っているそうです。
リストの演奏中には、弦が切れたり、ピアノ内部のハンマーが壊れることも度々あったんだとか。(当時のピアノのポテンシャルを超えていた?!)
そのためリストの演奏会では、初めからピアノを3台用意されていたという話もあるほどです。
1台壊れたら次のピアノに移ってまた演奏といった形・・・。
想像すると、ちょっと異様ですよね(笑)
【リストの生涯】ピアニストとして注目を浴びたのは意外に短かった?
フランツ・リスト(Franz Liszt 1811~1886)は、音楽好きな両親の元に生まれ、5歳からピアノを始めます。
なんと8歳から作曲を始め、9歳の演奏会では鬼才ぶりを発揮します。
その後ハンガリーの地を離れウィーンへ。
ベートーヴェンの弟子だったツェルニーにピアノを教わり、一流プレーヤーのサリエリに作曲を学びます。
1823年にパリへ移り住み、音楽院への入学を試みますが外国人という理由で入試を拒否されてしまいます。
それでも彼はめげることなく、指導者に恵まれながらどんどん能力を伸ばしていきます。
その翌年、パリでピアニストデビューを果たし、大成功をおさめるのです。
テレビもインターネットもないこの時代に、フランツ・リストの名は国境を越え、ヨーロッパ中に広まります。
それ以後、彼はヴィルチュオーゾ・ピアニストとしてヨーロッパ各地を演奏して廻ることになります。
ピアニストとして活躍するとともに、すでにこの頃には彼の女性遍歴もなかなか華やかに。
1835年パリで、とある伯爵夫人と同棲をし、その間にできた次女コジマは、のちにワーグナー夫人となります。
つまり、オペラで有名なあのワーグナーはリストの義理の息子となります。(そんな血縁関係があったとは驚きですね!)
10年足らずの同棲の末別れることになりますが、1844年リストは祖国ハンガリーに戻ります。
ブダペストで演奏会を開くと一般市民から熱い歓迎を受けます。
この後約10年間の演奏旅行が始まります。
ベルリンでは爆発的人気を誇り、当時の皇帝がリストの全演奏会に臨席するほど。
そしてリストは、1847年のウクライナの演奏旅行でまた、いけない恋に落ちてしまいます。
1848年、リストはその夫人とワイマールに定住し、ピアニストとして第一線を退くことになります。
作曲家として活動する一方で、リストは結婚を決意しますが、1861年女性側の離婚手続きが成立せず二人は全てを断念し、リストは僧院に身を隠します。
リストはこの時代に宗教色の強い作品を書いています。
しばらくすると、有難いことにワイマールからリスト復帰を求める声が高まります。
そして1869年にリストは復帰を果たします。
このときリストは60近い歳になっています。
晩年のリストは技術よりむしろ表現力を追求し、5分以上の曲は減って深みのある音楽が増えたといわれています。
1886年、バイロイトにいる娘コジマに会いに行きますが、その後肺炎にかかり、その地で弟子に囲まれながら亡くなったそうです。
当時にしてはとても長生きをしたリストですが、ピアニストとして活躍したのは人生の半分足らず。
1848年以降、作曲家としてのリストはマイナーな存在だったとされることが多いです。
そしてリストの74年間の生涯で最も長い活動地はドイツでした。
実は、リストの両親の血統もドイツに属しているともいわれ、リストはハンガリー生まれでありながらドイツのほうが所縁があるのがわかります。
ハンガリー語が話せなかった理由はそういうところにあるのではないかと考えられているのです。
天才ピアニストのリストも、恋に多く悩んだり沢山の弟子にピアノを教えたり、ハンガリー語が話せなかったりと、とても人間らしい部分がありましたね。(ちょっと安心♪)
完璧なリストも一度だけ挫折を経験している
リストは、歳が近くピアニスト兼音楽家という共通点からショパンとよく交流をもっていました。
高い演奏技術で万人受けしていたリストの演奏は、ショパンからも「あんな風に弾いてみたい」と好意をもたれていたんだそうです。
しかし、リストでも初見でひきこなすことができなかった曲がありました。
ショパンの「12の練習曲 作品10」だけは神の手をもつリストですら、すぐに弾けなかったんです。
それがこちらの曲です。全部聴くには時間がかかります(笑)
すでに序盤から右手の動きが凄すぎます・・・。
そして第1番から第12番までと曲が長い!
ショパンが作った練習曲の中で最も有名な曲の一つですが、特に第2番は難易度最高ランクに位置付けられています。
滑らかなポジションチェンジをする左手、忙しくメロディを奏でる右手に圧巻です。
リストはどの部分が上手く弾けなかったのでしょうね。
「自分はどんな曲でも簡単に弾きこなせてきたのに、それが出来なかった。」
リストは、挫折に近い感覚を味わいました。
そのせいでリストは突如姿を消し、数週間ひきこもってしまいます。
でもリストはその期間に練習を積み、その後「12の練習曲 作品10」を全曲弾きこなしてショパンを驚嘆させたんだとか。
そしてリストの演奏があまりにも見事だったため、ショパンはこの曲をリストにささげました。
私も挫折を経験したことがあり、ピアノからかなりの期間離れ、ピアノに触れない生活を送りました。
でも、リストの場合は挫折と言ってもピアノを辞めることは一切しませんでした。
彼はどんな思いで練習に打ち込んだのでしょうか。
リストの負けず嫌いぶり、技術への強い執着が感じられますよね。
いや、物事を極めることに「負けず嫌い」と「執着」は大事なのかもしれないですね。
漁師ピアニストの徳永さんも最初、家族にカンパネラを弾くのは絶対無理と言われて闘争心を燃やし、練習に励まれていましたね。
私は彼らのように、そこまで誇れるようなものは持っていません。
でも、音楽を心から楽しむ方法を知っています。
これからも読者様がワクワクするようなピアノライフを送れるよう、お手伝いをしていきたいと思っています。
次回の記事もお楽しみに♪
最後までお読みいただき、ありがとうございました。